221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 優勝すれば50万円。まさに破格のポケモンの大会が今週頭から開催されている。

 説明を聞いたところ、少しだけややこしいシステム(いや、この「ややこしい」は今まで経験してこなかった新しいシステムに触れる際に必要なエネルギーコストの理由を、システムの側に押し付けるときに使う逃げ道としての「ややこしい」であり、そしてその責任転嫁がアップデートを止めてしまうという意味で本当に良くないことは自覚している)だったので、参加するか躊躇って3日ほどの権利を放棄していたのだが、そんな折に友人から勝ち抜けたという報告をかまされたので腰を上げざるを得なくなった。

 一回戦のルールは「1日1回挑戦可能。2敗する前に3勝すれば勝ち抜け」である。数字だけ見たときの直感ではなんとなく3勝2敗、すなわち勝率6割で良さそうな顔をしているが、よく考えると3勝1敗を決めないと勝ち上がることはできない、それなりにシビアなボーダーである。とまあ細かいルールの解説をしたいわけではなくて、ここで伝えたいのは、久しぶりに心のひりつく勝負をすることができて楽しいね、という話だ。全員が「1回しか負けられない!」と気負った状況で、相手を騙すような戦術で心理戦を制した瞬間の心地よい後ろめたさはこういう大会くらいでしか感じられない。これは勘だが、やたら数多く見たり読んだりしてきたミステリーや刑事ドラマから察するに、何らかの犯罪を達成させた犯罪者の心情と通ずるものがあるような気もする。罠を仕掛ける『TRICK IT』、完全にヒール役の立ち回りをしているので。

 

 何はともあれ、先ほど無事一回戦の勝ち抜けに成功した。僕に参戦のきっかけを与えてくれた友人は3人いて、中高生の頃にずっと一緒にポケモンをしていた同級生である。長い時を経た今でも、何か強制的に行動を変えさせられたような気持ちになり笑ってしまうのだが、まだ一回戦とはいえ、結果のついてくる良い時間を過ごさせてくれた点では助かった。

 例えばミサモを見たときに、自分の人生ではこんな関係性になれる相手が現れることはないのだろうなと、自分の行動力や社会性、ひたむきさなどあらゆる能力の低さを度外視して勝手に寂しさを覚えることがある。ただ、そんな大層な人間関係は叶わなくとも、自分の人生に見合うくらいのちょうど良くて慎ましい関係性には、これまでの歩みを通して囲まれたのかもしれない。GOTCHA!

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 新曲MV解禁をオフィスで迎えるとは、すっかり社会の色に染まってしまった。そんなことを思いながらも、まるで仕事をしているかのような顔でプレミア公開のカウントダウンに胸を躍らせていたあたり、適当さとも呼べる余裕と少しばかりの反抗心を同時に身に纏った、いわゆる一年目の終盤といった風格に落ち着いてきたのではないだろうか。さすがにその場では3周くらいが限界だったけれど、第一印象プラスアルファくらいはTwitterでも共有できて、それなりにカムバTLを感じることができたので、禁断症状でぶっ倒れることなく一日を終えられた。

 その中でツイートもした通り、強くて美しい"流れ"を感じる楽曲で、各パートのバトンが綺麗につながっていく様が今までとはまた違う感情のルートで何度も聴きたいと思わせる。その流れの美が最も強く感じられるOh baby Just to make yourselfが良すぎて毎回待ちに待ってしまうし、流れの中に映像的な意味でもスパッと差し込まれるI guarantee I gotchaの刺激が本当に心地よい。14時のオフィスで深夜を感じられるとは思っていなかった。

 リパケに伴うTWICEの連作MVの激烈オタクなのでこれだけは言っておかなければいけないのだが、最後のインターホンの音を聴いた瞬間に「繋がってくれ……!」とJYP本社の方角に強めの祈りを捧げてしまった。別に物語性のようなものは求めていないし、むしろ作品の純粋さのためにはできれば避けて通ってほしいと思っている側の人間なのだが、これはミステリーにおける「伏線」に対して抱く違和感や期待感と同じ情動なのである。伏線というものは、計画性や一貫した思考の筋が通っていることの証明であって、よく考えられて作り上げられたものだ、という事実自体が僕にとってはこの上ないほど喜ばしい。前回のEnglish Singleも最後にツアー日程を貼っていたくらいだし、今回インターホンが鳴ったことの意味が、まだ我々には見えない未来にあること、つまりは今ここに何かが仕掛けられたことを願うばかりである。

 そういえば、比較すると少し高いけれど、サビの"moonlight"の二音が『MOONLIGHT』内の"moonlight"と似ているような気がする。共通性は、可視性の低いシステム部分に潜ませるのが最も美しいと僕は思う。TWICE、今回もありがとう。

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 1日に更新する予定は元々なかったのだが、先週に関してはシンプルな忘却ということで、遅ればせながらこのブログの新年が明けた。明けましておめでとう、はどこか呪文のようなものであって、心の底から年明けに対してめでたさを感じている人間の割合は、そこまで多くないと見ている。いつものごとく要らぬことを考えて調べてしまったのだが、現在の正月、すなわち太陽暦1月1日の決まり方は極めて腑に落ちないものだった。簡単にまとめると、元々は農作業を始める春先の3月を1年の始まりにするような暦を作り、各月に神の名前をつけていった結果、当時の11月=現在の1月の由来となったJanusが始まりを司る神だったため、こちらが1月により相応しいということで決まったらしい。本当かは知らないけれど、さすがに舐めすぎ。そんな決まり方をした正月に特別な思いを持てと言われてもな、という感じだ。

 もっと単純な意味のわからなさで言うと、明治5年までは太陰暦を使用しており、突然12月2日を正月にすると宣言して太陽暦に移行したらしい。現在ありがたく拝まれている初日の出は、その年までは何でもない「とある日」の日の出でしかなかったわけだ。拝まれる側もびっくりだろう、急に注目されてもね。あまりにシンデレラガール。

 

 要するに僕は、理由が定かではないまま、あるいは理由に納得できないまま、何かを特別視するということに対して、どうしようもない違和感を抱き、自分と同じ違和感を共有していなさそうな世界に落ち着かなさを感じてしまう。誕生日もそうで、自分がその日に生まれたという実感は持てないわけだから、他人からの伝聞でしか特別な日にはなりようがないという曖昧さを秘めているのである。自分が誕生日に生まれたという証拠を、何らかの方法で実際に確かめた人はどのくらいいるのだろう。

 とは言え、当然ながら物事の一区切りを祝うこと自体を不自然だとは思わないので、一区切りの出自はともかく、そう希望する人たちがある種の記念日にさまざまな非日常を作り上げるのは別に良いと思う。僕はメリットのある範囲で便乗しつつ、社会から消されない程度にその盛り上がりを避けることにしているけれど。

 

 そんなことはさておき、カムバである。『Moonlight Sunrise』で実感のある日の出を拝んでいきたい。実質、20日が本番の正月かもしれない。

 はい、今年もよろしくお願いします。

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 Twitterの四角いアイコンを見かけたとき、いいねがふぁぼと呼ばれる星だったあの頃のことをふと思い出した。まだスマホを持っていなかったから、毎日自宅のパソコンからTwitterにログインするしかなくて、タイムラインに夜だけ現れるアカウントをやっていた。時間の限定性が良くない方向で作用し、ノータイムでツイートを連投しては、いわゆるエアリプで同年代のアカウントたちと馴れ合う。そんな夜は公共の場であることを忘れさせ、少しの検索力さえあれば特定されかねないラインまで情報を垂れ流してしまうリテラシーで呟きを重ねた。そしてこのツイートスタイルは今とは比べ物にならないほどのふぁぼを生み、フォロワーを生み、リプライという関係性を生んだ。目に見える数値が増えていくのは分かりやすく嬉しくて、毎晩楽しくツイートをしているだけでそれが手に入るのだから、Twitterは当然のようにどっぷりとはまって抜け出せない世界になっていく。

 今もここでブログを書いているけれど、文や文章を書くという行為自体が好きであり、その嗜好はあの頃から大きく変わらない。タイムラインという狭い世界の中には、実際に自分のツイート内容を褒めてくれる人もいて、増えていく数字たちは自分が好きに紡いだ言葉に対する評価のようだった。いま思えば、まだしっかりとラベリングされていなかった「承認欲求」のど真ん中を満たしてくれる時間だったのだろう。問題の多くは満たし方にあって、承認欲求それ自体を悪とするのは過剰だと感じるのだが、現在の自分よりは確かに満たされていて、確かに歪んでいたように思う。

 

 そこから紆余曲折を経て、関係性をミニマライズする方向転換をしたのだが、色々なものが変わってきた中で相変わらずオタクをしている現在があの頃からの積み重ねの上に成り立っていると思うと、黒歴史と切り捨ててしまうのは勿体無い気がする。『When We Were Kids』で歌われている過去の自分への愛とは、きっと必ずしもKidsにまで遡らなくてもよいのだと僕は解釈している。

 きっと全く関係ないのだが、今週は埼玉の路線バスの旅を見て、LE SSERAFIMの曲をよく聴いた。久しぶりにアイドルの写真集も買ってしまった。少しだけ昔を生きているような時間があった。そこに善悪はなくて、強く変わらずにいることも、柔軟に変わることも、どちらも難しくてどちらも寂しい。

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 飲み会だの打ち上げだの、自分の意思だけで一緒にいるわけではない人々と過ごす「なんとなく楽しいっぽい集い」が僕は好きじゃない。その際たるものの一つである忘年会のシーズンがやってきて、ついこの間の金曜日に強制的に参加させられることとなった。正式な使い分けは知らないけれど、なんだか「参列」という表現のほうがしっくりくるような気がする。冠婚葬祭と同じ、シンプルに義務でしかない時間が持つ薄暗い雰囲気を纏っていたので。

 不幸中の幸いというべきか、わざわざ足を運ばないと気づかないような会場の端っこで一緒にポケモンで遊んでいられる人間が、それも複数存在したので、参列の記憶を追いやりながら一日を終えることになんとか成功した。そんなふうに「社会」から身を潜めて自分たちの時間を取り戻そうとしていると、だいぶ序盤に校庭からフェードアウトしてひたすら人狼に勤しんでいた中高の体育祭を思い出してしまう。社会不適合を自称することは、むしろ自己防衛的であったり、「他人とは違う自分」のアピールのように思えたりするので避けたいのだが、残念ながらそう呼ぶべき空間のほうがずっと居心地が良く、これまでそしてこれからもきっと、そうやって難を逃れるのだろうと改めて突きつけられた。

 とは言ってみたものの、身の回りで忘年会を楽しみにしている人間をひとりも発見できていないので、もしかしたらその両者を並列して比較するのは体育祭に失礼かもしれない。や、じゃあ一体どうして開催されてるんだこいつは。

 

 忘年会は冠婚葬祭みたいなものだと最初に書いたが、それは良い意味でも捉えることができて、いわば通過儀礼なので終わったらそのまま終わってくれるものなのである。一方で、日常の労働は一度終わったところでまだまだ終わらない。これがどうにも人生と能力の浪費としか思えなくて、これまでの12月と比べて『Merry & Happy』もよっぽど空虚に響いてしまう。

 例えばついさっき、M-1の優勝者が決定した。ありきたりでにわかな感想を言えば、彼らの今日までの蓄積を思うと素直に祝福したい気持ちになるのだが、それと同時に、今のままで自分が何かを成し遂げる日は来ないことを直感するのである。この世界に何か爪痕を残したいという意味ではなく、爪痕を残さないのに手元にも何も残らないこと、無駄にしかならない時間を憂いたくなるのだ。

 だから、そろそろ終わろうと思う。

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 Nizi Projectの東京予選には「スター性」という評価軸が存在した。オリジナルのラジオ番組やテニス講座が記憶の中では鮮明だが、ざっくり言えば自分だけの特別な個性を表現するパフォーマンスがテーマだったと思う。それでスター性なる能力が本当に測れるのか、そもそもJ.Y.Parkが考えているスター性とは実際のところ何なのか、番組内である程度までは言語化されてはいるものの、主観を剥ぎ取ることがとても難しいという意味で、自分を含め視聴者にとってはどうしても曖昧な部分が残る評価軸だと感じやすいのではないだろうか。

 とはいえ、絶対的な見定めに難しさを覚えるというだけで、その軸自体や結果に不満があるわけでは全くなくて、これはむしろスター性がアイドルにとって凄まじいウエイトを持っていると最近よく感じているからこその蒸し返しである。もっとわかりやすく言うと、例えばIVEのウォニョンを見たときの、浴びることを避けられない輝きの話をさせてほしいのだ。

 

 一見したときの印象、シンプルなビジュアルとして彼女のことを好きかと問われたら、僕は正直そうでもないと答えるだろうし、何回も見た上でもそこが大きく揺らぐわけではない。それでいて、ステージやパフォーマンス、極端な話インタビューや舞台裏でも、スッと視線を吸い寄せられてしまうのはいつもウォニョンで、この力が一体何なのかと考えたときにふと浮かぶのが「スター性」なのである。TWICEで言うとナヨン、NiziUで言うとミイヒ。どちらもいわゆる一番の推しメンではないけれど、ぐいっと心と視線を引っ張って離さないパワーはそれぞれ常に圧倒的で、グループの『Queen』のように思えてしまう。彼女たちが立っている場所は、もはや努力でも運でも追いつけないような遥か遠くのようで、この言葉では言い表せない魅力におとされたとき、この人たちはアイドルになるために生まれてきたんだな、と感じざるを得ない。そしてそんな彼女たちがいるグループは本当に特別な形でこの世に現れて、スター性の粒子が全体に行き渡っているような輝きを感じられるのだと僕は思う。

 

 IVEに関しては、正直グループ名から驚いてしまう。あまりに変幻自在でリーチが長い。誰かが思いつきそうなものなのに、まだ残っていたんだなぁという感じ。年末の賞を掻っ攫ったいま言ったところで後追いでしかないのだが、もう見ずにはいられない。

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 僕の母は「MUSIC ON! TV」なる音楽チャンネルで韓国の音楽番組の再放送をやる日程をなぜか把握していて、今日も我が家のリビングでは2016年末のSBS歌謡大祭典が流れていた。脳内に刻み込まれたTWICE暦を辿ってみると、2016年といったらやはり爆発的に売れた、というよりも何ならむしろTWICEの名を爆発的に売った2曲がリリースされた年である。その頃はまだ出会っていなかったこともあり、個人的にはそこまで思い入れの強い楽曲でもないのだけれど、『CHEER UP』に関してはそういえばつい先日のMAMAでは第4世代によるカバーもあったりと、ちょうど今が改めて聴きたいし見てみたいタイミングだった。

 今でも第一線のグループや、名前だけ聞いたことがあるグループ、解散してしまったグループなど、それぞれ楽しませていただきながら、いよいよ待ちに待ったTWICEのステージを目の当たりにしたとき、瞬きも勿体無く思われる時間に速攻で包み込まれてしまった。ちょっとあまりにかわいすぎる。もう長いこと好きなはずなのだけれど、好きになるかと思った。あの特別な輝きは何なのだろうか?テラスタル?自分が出会う以前のTWICEの映像は、色々な機会に見てきたけれど、2016年の年末の彼女たちに撃ち込まれる衝撃というのはもしかしたら今までは経験不足で、好きになる前日譚が補完されたような心持ちになった。

 

 めちゃくちゃ良かったな......と思っていたら、J.Y.Parkプロデュースのダンスステージというもう初手から期待しか感じさせない何かが始まり、SEVENTEENとGOT7とヨジャチング、そしてTWICEが歴代JYP曲を披露し始めたので、情緒が複数の角度から壊れそうになった。こんな映像が確かに存在していてどこかでは見た気もするけれど、おそらく全編通しては見ていなくて、さらにNizi Projectまで通ったことでJYP曲の沁み方も格段に変わっていて、無駄なく綺麗に心に効いた。音楽との思い出というものは時間の流れとともに美しく咲くものだなと、何か詩的な悟り方すらさせられてしまうパフォーマンスは圧巻だった。

 僕が思うアイドルの良さって、こういうことなんですよね。「アイドルは職業とかではなく現象だ」と言っていた人がいたけれど、それも少しわかる気がする。

 あの特別な輝きこそが、アイドルの本体なのかもしれない。