221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 いつかやるとは思っていたけれど、ついにそのときが来た。

 4月から毎週日曜日に書いていたこのブログの存在が頭から欠落し、日付で言えば火曜日にこれを書くこととなっている。先週も書いた通り、ポケモン漬け生活を送っていることがその主な理由であることに間違いはないのだが、それとともに、嫌になるほど日常生活がぎゅっと詰まっている週を送ってしまったがゆえに、余裕のないスペースから早々と押し出されたのがこいつだったのだろう。

 仕事柄(という言葉を使う日は訪れてほしくなかったが)、芸能界のほんの一部を覗き見る機会がある。と言っても別に、そこから想像されるほど大袈裟な仕事をしているわけでは全くないのだが、とりあえず今週というか先週はちょうどそういう周期にぶち当たっていて、肉体的にも精神的にも謎の徒労感を抱えつつ、ミーハーなオタクゆえに少しばかりの満足感もあるような時間を忙しなく流していた。とまあいくらポジティブな気持ちが生じているとはいえ、もちろん推しに会えるわけではないし、感情を差し引きすればどう考えてもこの労働は明らかにマイナスだし、何か自分が自分に騙されているような気がする。このままだと次第に感覚が労働という当たり前に蝕まれていって、気づけば『Going Crazy』という日が訪れそうだ。いつもよりやたらと長くかかるその行き帰りにパルデア地方を旅しながら、使っていない脳みその端っこでぼんやりとそう思った。特にこれが記事を書くという習慣をふっ飛ばした言い訳になるとは思っていないのだが、とにかくそういう日々だった。

 

 話は変わって、そういえばまた東京ドームに行った。正確には東京ドームの横の、名前が思い出せない施設でリアル脱出ゲームに参加しただけなのだが、その日はSEVENTEENが公演をしていたらしく、現地を満たすあの独特な雰囲気だけ副流煙のように吸い込んだ。同じ会社の人が連れていってくれたこともあり、目の前で日常と非日常があまりにピッタリと隣り合っているようで、なんだか酔いそうな心地にさせられた。

 推し以外と会ったからといって満足することはなく、滅多なことでは休日に家から出ることはなく、ペンライトを持たずして東京ドームに足を運ぶことなど考えられなかった僕が、その全てを破るような時間を過ごしてしまった。絶対にそんな定義であるはずはないのだが、社会に出るとはこういうことなのかと思った。

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 パルデア地方にいるので、本当にこの現実世界からは隔離されてしまっている。というか、パルデア地方の全てを自分の目で確かめたいが故に徹底的に自らを隔離している、というのが正確な実情なのだが、とりあえずここ数日この世界で起きた出来事についてはほとんど知らないと言ってもいいのではないだろうか。日常的にTwitterを主な情報源としているので、完全に開かないとこうも何も入ってこないものなのだと、その依存度に我ながら呆れてしまう。

 Twitterを開くためにはどうすればいいかというと、ストーリーをクリアする必要があるのだが、少し触ってみて(ここで言う「少し」とは10時間程度のことを指す)どうやら先は長そうだぞ、と言うのがわかり始めてきた。だから、本当はこの記事を書いている時間もポケモンにあてて、一刻も早くパルデア地方を踏破するべきなのだが、如何せんフルのオープンワールドは目が疲れる。連続で長時間プレイするという「当たり前」がシンプルに肉体的な負荷によって難しくなっており、この記事を書くことを含め、仕方なく発生する休憩に普段やっている他のこと(ただしTwitterなど情報に触れることを除く)をするしかないのである。ただむしろそのおかげで日常生活の滞りが少しだけ緩和されている部分もあるので、この眼精疲労は日常を送れという間接的な指令のようでもある。

 東京ドームの感想も書きたいし、再開したTTTも見たいのだけれど、ポケモンの新作ストーリーが有しているのは「知らない」ことが生み出してくれる感動であり、そして数年ごとにしか訪れない手放してはならない感情でありながら、しかし「知る」ことばかりが容易なこの時代だと失われやすい経験なのである。一度失ったら戻らない不可逆的なものには敏感でなければならないと僕は強く思う。だからどうにも気を抜けない。

 

 しかしまあ、新作はやれることが多すぎて恐ろしくなる。ストーリーがゴールを目指す迷路だとしたら、僕は全ての行き止まりに立ち寄りたいタイプなのだが、どの分かれ道も行き止まりまでがあまりに広大で一度進むと分岐点に帰れないほどなのだ。ゲームが進むようにルートを引いて作られた世界ではなくて、元から存在する世界をゲームに使っている感覚に近い。そういう意味でゲーム的な『Perfect World』とは違っていて、だからこそ無限に楽しめる完璧な世界なのかもしれない。

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 NiziUのドーム初日、良すぎ。

 終わってからめちゃくちゃツイートしたのでお分かりの通り、本当に最高だったんですよねこれが。別の場所でしっかり書きたいとは思っているんだけれど、あまりの良さにこのブログにまで感情が滲み出てしまいました。今日参戦して本当によかった〜〜〜と思える瞬間がこれでもかというほど訪れて、同じ東京ドームということもあるのかもしれないけれど、僕が現地恐怖症を乗り越えて初参戦した伝説のDreamdayを彷彿とさせる最高の公演でしたね。何とは言わないけれど、イントロが聞こえた瞬間、NiziUとの全時間が流れ込んできて完全に息止まりましたし、どれとは言わないけれど、蓄積した時間もないのにシンプルにその場の歌声のパワーだけで泣かされてどうなってしまうのかと思いました。『Be as ONE』みたいに、聴くだけで少し照明を落とした東京ドームの光景が浮かぶ曲になりそうです。

 ではなくて、その翌日に別のアーティストの公演に参戦することになった話を今日のメインにする予定でした。一応先に言っておくと、特に直接的な比較をするつもりはないし比較したいとも思っていないので、個別の感想として引き離しながら書きます。

 

 全く興味がないわけでもないし、半数以上の楽曲は知っているというレベルだったのだが、自分の意思ではなく公演に行くと、開始時刻に近づくにつれて体内から湧き出る熱気みたいなものがなくて、それから目の前のステージに人影が現れた瞬間の、自分自身のモードが切り替わる感覚もなくて、ある種落ち着いた楽しみ方ができることを知った。逆に言えば、ああいう現象は現場の雰囲気に引きずられるものではなく、自分の好きだという気持ちに起因していたという事実をはっきりと認識させられたことは、少し嬉しいような気もする。

 ただ、落ち着きが悪というよりかは、あまりの情緒の揺れ動きにパニックに陥るみたいなことがないため、自分のキャパシティに収まる受け取り方ができるという意味で、受け取るべきものを全て受け取れている別軸の満足感のようなものは得られた。積極的にやろうとは思わないけれど、たまには悪くないといったところで、自らの興奮と狂気からの解放を感じさせられる体験だった。

 今ふと思いついた喩えで言うと、温泉付きのホテルに泊まって部屋のバスルーム使うようなイメージだろうか。......ちょっと違うかもしれない。

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 夏目漱石の書いた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という一文を信じるのであれば、僕は比較的馬鹿の部類に入るのだろうなと思った。これを任せるのは成長のためだとか、こういう風な視点を持たないと成長しないとか、仕事をしていて降り注ぐそういう言葉たちを、成長することはそんなに大切なことなのだろうかと疑問を抱えたまま耳を素通りさせていることにふと気がついた。成長を目的化されると全く心に響かなくて、それは結局のところ、そこで重要視されている成長に興味がないから、というのが解釈としては最もシンプルである。

 成長自体に関心がないのかと改めて考えてみるために、これまでの人生において「成長したい」という気持ちを抱いた経験について脳内を検索してみたら、韓国語を勉強した時間がヒットした。できる限り多くのコンテンツを受け取れるようになりたい。vliveをリアルタイムで見ても楽しめるようになりたい。こういう目標を成し遂げるために、確かに成長したいと思って勉強していたような気がする。この経験が誰かに強制される成長と大きく違うのは、成長が手段であることと、成長の目的が自発的な興味と結びついているところである。逆に言えば、主体的な動機づけのない成長をゴールかのように提示されるのは、なんというかただ気持ち悪いだけで、なりたくもない何かにさせられそうという嫌悪感は、もしかしたら存在するのかもしれない成長のメリットを覆い隠すのには十分すぎる。

 そう考えてみると、誤った方向の成長に対して嫌悪感を抱けるという事実や、成長したいと感じた経験が存在したという事実は、正方向の成長に対するモチベーションの残滓とも言えるわけで、そんな観点に立つと僕の中にも僅かながらの向上心が宿っている可能性も捨てきれない。それなら、その向上心に従って歩みを進めるべきという気がするし、真っ当な向上心を抱けない場所で無意に過ごす時間はさっさと切り上げるに越したことはない。さてこれは転職の理由たりうるだろうか。

 

 話は変わって、珍しい成長の機会をくれたvliveさえも終了してしまうというのは悲しい限りで、5年ほど前に見たミチュの『녹아요』が、僕を引き摺り込むトドメの映像として機能した瞬間のことは今でも忘れられない。本当に終わってしまう前に、改めて二人の会話を聞いてみるのも良いかもしれない。僕がそこまで「馬鹿」ではない証左でもあるのだから。

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 帰るつもりだったのに終電を逃したのは初めてのことだと思う。

 金曜日だから都合が良いのか、3日という時間を待つことができなかったのか、はたまた31日まで連続でそれをやり続けるのか、理由は定かではないけれどすでにハロウィン色に染まりつつある六本木の路地に僕はいた。これはシンプルな偏見だけれど、ただでさえ空気が浮ついていて、きっと物理的にも精神的にも全国平均より鼻の高い人々が闊歩しているのがこの六本木という街だ。だから、視界に入る仮装の有無に関わらずどうにも長居したいと思える場所ではなかったし、そんな夜はさっさと自宅に戻って、普段は袖擦り合うことのない人間たちからうっすらと浴びてしまったオーラを風呂で洗い流すというのが正解に違いなかった。

 これは後から知ったことであり、もう忘れることはないのだが、六本木から自宅の最寄り駅まで帰る方法は細かく分ければ5種類ほどあるらしい。そして、僕が把握していた最も単純な帰り方はどうやら時間がかかるものだったらしく、食事中にさっと目を通した乗換案内に表示された終電はもっとスピーディーな別ルートを意味していた。その事実に気がついたとき、今度六本木から帰るときは注意しようと誓ったが、より根本的に、六本木から帰る日が再び来ないように気をつけるほうが良いかもしれない。

 普段は乗らない電車を乗り継ぎ、可能な限り自宅に近づいてみると、距離で言えばなんだかんだあと5kmくらいの地点までは辿り着くことができた。幸い『Alcohol-Free』な状態だったので、1時間ほど夜道を歩いて帰った。日常的にはほぼ運動をしない人間にとって、この深夜散歩はなにか「良いこと」をしているような感覚で、終電を逃したという事実の悪が精算されるような気がした。実際は悪による帰結でしかないため、全然そんなことはないのだけれど。

 

 昔からよく思うのだが、夜道を歩くことは日常と非日常の狭間を揺らめく行為のように感じる。仕事をしてきたのか、イベントを楽しんできたのか、そこに至るまでの夜の過ごし方によって、たとえ全く同じ道を歩いていたとしても、ルーティーンの哀愁が漂う時間にも、忘れられない特別な時間にもなりうる、その日の決算のような時間なのだ。

 ちなみに終電を逃した帰り道はというと、最寄り駅を過ぎていつもの帰路に踏み入れた途端に、少しの後悔とそれなりの疲労感がのしかかるので覚えておきたい。

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 秋などという季節は存在しないかのように、汗ばむ陽気の翌日には上着を羽織っているという急転直下の外気の変化にさらされながら、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 なんて言ってみたものの、目に見えたり肌で感じたりする変化だけが秋の訪れではないように思う。秋に物寂しさという感情を最初に当てはめたのが誰なのかは知らないけれど、どうもこの時期になると、夏にも冬にも流れることがない、どこかローな雰囲気が身体の中を彷徨い始めるのを感じる。それゆえに、さまざまな意味でフットワークがズンと重くなったり、はたまた何もしないことに居心地の悪さを覚えたり、毎年ふとした瞬間に「足りなさ」と出会いがちなのがこの時期で、気温にはそれを感じられずとも、今年も秋が来たなと思わされている。試しに調べてみたら、日照時間が短くなって体内のホルモンバランスが変わるだとか、社会のシステムとして春や夏に比べて刺激が減るからだとか、いくつかそれらしい理由が並べられていた。実際にそれらの理由は正しいのかもしれないけれど、なるほどね!と納得感を持ってこの話をすっぱり終わらせることができずに、うーんなんだかなぁと消化不良なままページを閉じるのがこの秋という季節なのである。

 その中でも2018年の「足りなさ」は比較的悪い意味で格別で、今でも『AFTER MOON』を聴いたときにふと泣き出したくなる理由の一つは、あの秋が詰まっているからだと思う。大学の帰り道、車窓から見た夕暮れがどうしても脳裏に浮かんでしまう旋律で、別に何かが具体的に辛かったわけでもないのだが、思い出の中で色がついているのはもはやTWICEだけというそんな時期だった。TWICE7周年のカムバを振り返る映像を目にしたとき、いちばん最初に思い出させられたのがこの2018年の日々で、極めて一方的で主観的ではあるのだけれど、共に存在したという実感がものすごく強かったからなのだろう。そんな思い入れがない人でも、最近聴いていないという人は是非聴いてみてほしい。歌詞も旋律も素晴らしいので。

 

 7周年。幸せなことに、TWICEを失う日は訪れなかった。こうしてずっとそばにいてくれるので、その存在を「当たり前だと思わない」ことは案外難しいと僕は思う。でもあの秋を思うと、その特別さだけは身に沁みるのだ。

 

 you and I you and I you and I

 언제나 곁에 있을게

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 食べるという行為は生きていく上で必要不可欠なものであり、人々の暮らしにおいて身近で代表的な幸せなのかもしれないが、世の中には僕のように極端に食への興味がない人間も存在する。好きな食べ物を聞かれても、いま食べたいものを問われても、何かがパッと思い浮かぶことはまずないし、逆に全然これを食べる気分じゃないんだよな、みたいな気持ちもあまりよくわからない。よく見ているYouTubeのチャンネルも、何かを食べる系の企画のときだけはあまり面白いと思えないのでスキップすることにしている。だから、僕にとって食事というものは「生命維持のための義務」という以上の捉え方がなかなか難しく、そんな気持ちがもしかしたら冒頭のあまりに淡白な食の定義を書かせてしまったのかもしれない。

 こういうことを言うとなぜなのかと聞かれることも多いのだが、何かが「無い」ということの理由を言語化するのは容易なことではない。個人的にもその理由を考えてみたことはあるのだが、今のところは満腹中枢がイカれているから、という説明のウケと論理性がそれなりなのでそういうことにしている。自分はあまり満腹を感じないので、例えばビュッフェなどにいった際に、食べろと言われれば比較的無限に食べていられるほうであり、だからこそお腹が減った状態からそれが満たされることによる幸福を得られない、という説明の仕方だ。もちろん、不味いものより美味しいもののほうが良いには良いけれど、美味しさを追求してプラスでお金を使おうなどとは一切思えないので、味覚的な観点からもかなり優先順位を下げることができてしまう身体なのだろう。

 

 空腹を我慢することが苦では無いなど便利なときもあるのだが、別にこのことを誇らしいと思っているわけでは決してなくて、最初に書いた通り、食は身近な幸せなのだからそれを獲得できない分、人生のトータルでは損をしているような感覚で生きている。特に、好きなアイドルがご飯を美味しそうに食べている映像を見ているときには、そこに全く共感できないことへの悲哀すら覚える。

 とまあ、久しぶりのTTTを見ながら改めて感じたのでこれを書いているのだが、ゲーム性を持たせてくれたおかげで内容自体をすごく楽しめたのは本当にありがたい限りだ。食事では得ることの難しい幸せの代わりに、オープニングの『Do It Again』の安心感を噛み締め、そして飲み込んでいこうと思う。