221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 一年間何とか書き続けてきた毎週の1000字も、今日で終わりを迎える。どんな形であれ生きた証を残していかなければ、流れる時間に飲み込まれていきそうだとか、大体そんなことを思って始めたような記憶があるが、何にせよ自分で勝手に背負い込んだ義務であり、終わりというのもまた勝手に決めて然るべきものであるから、終わりを迎えるという、まるで自然の摂理のような表現の仕方は正確ではないのかもしれない。

 今週を書き出す前にこれまでの記事を振り返ってみたのだが、各週の情緒をなんとなく思い出すことができて、全く意味のない文章ではなかったことに安堵した。アイドル、ポケモン、趣味嗜好、社会性。自分で書いているのだから当たり前ではあるものの、全体を貫くように複数回登場するテーマがいくつか存在していて、それらがバラバラのリズムで波打ちながらこの一年を構成していたように感じさせられる。そしてこの全てが、気づかぬうちにこの3月には積み上げられているのかもしれない。

 

 そもそもこれを毎週書けると思ったこと自体、あまりに社会を度外視した「ひとり」すぎる船出だったように思う。アイドルオタクもポケモンバトルも、結局は一人だけで完結できてしまうし、人間関係を忌避したり、食事や会合に興味を持たなかったりという性質も、一人を加速させるという点においては素晴らしい役割を発揮してしまう。こうして内面をドロドロと書き記せるのは、自分以外に目を向ける時間が極端に少ないからなのだろう。ただその一方で、そうやって一人でも過ごせる時間と感情を共有してくれる人間が、この一年間には度々登場してくれていた。コンサートの後にも、ポケモンの大会前にも、そして労働と隣り合わせの日常にも。この事実が本当にありがたいことなのだと、改めて一人きりになった日常で向き合わされている。

 この一年の『The Best Thing I Ever Did』は、きっと春の出会いである。僕は知らぬ間に一人ではなくなっていたようで、だからこそ一年間書いてきたこの記事の山場が、また一人になる終わり間際の先週に訪れたのだろう。かくいう僕も、もう少ししたら新天地へと飛び立とうとしているところなのだけれど。

 

 結局アイドルが好きな理由は、顔。

 最後の日、彼女はそう口にした。僕は自分が初めて世界に放った記事を思い出す。

 

 次の4月に満ちている空気は、一人未満の虚しさに違いない。

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 この1年間一緒に働いてきた同期が、会社を去っていった。部署も職種も同じ唯一の同期であり、いつもすぐ近くで仕事をしていたし、昼休みのランチや、ときには飲み会という名の夕食の時間もよく共に過ごしてきた。そうやって親しくしていた同期がいなくなるのは寂しくないかと周りから訊かれるけれど、本当に自分が感じざるをえないのは、端的に寂しいという言葉で表しきれる、一般的に別れの場面でありがちな感情ではなく、あえて言えば喪失感のような、当たり前に存在していたものがある瞬間にすっかりと消えてしまったときの、戸惑いや不安に近い感情のように思う。その人に会えないこと、話せないことに対して生じるのが寂しさで、それはプラスがゼロになったという事実に向けられると思うのだが、当たり前が欠落する、すなわちゼロがマイナスになったときに感じさせられるのが、いま抱いているなんとも処理し難いこの感情である。昨日までと同じように日常が続いていくのに、それは昨日までの延長線上にはなくて、人が死ぬときってこういう感じなんだろうな、と思った。

 日陰で人生を送ってきた弊害からか、春は出会いと別れの季節だとか、同期の絆だとか、人間関係を舌触りだけが取り柄みたいな言葉で良いように表現するのは、正直聞くだけでもつい嫌気が差してしまう。冗談半分、いや、思えばお互いに9割くらい真剣だったのかもしれないが、よく二人で仕事を辞めたいと話していて、向こうが少しだけ先にしんどさと訣別していっただけだ。僕たち二人の関係性もそんなキラキラしたものではなく、同じようにアイドルが好きで、食の好みが似ていて、話題がなくても話せるというただそれだけで、そして、それだけなのが良かった。

 

 最後の日、居酒屋に同期のほぼ全員が集まり、普段みたいな時間を過ごした。そんな普段を終わらせたくなくて終電を逃し、カラオケでできる限り今日を続けた。明るくて暗いままの5時の渋谷駅で、別れを惜しみながら僕たちは散り散りになっていき、奇しくも最後にその同期と二人きりになったのは僕だった。始発電車に揺られながら、今夜の話をして、初めて会った日の話をした。電車を降りていく同期——彼女にかける言葉は見つからなかったし、特別かけるべき言葉もきっとなくて、いつもみたいな冗談混じりの会話と、適当な「じゃあね」で別れを告げた。

 雨音と『Feel Special』のよく似合う夜だった。

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 思いついた内容がどうにも深夜2時を回ってから書くには重すぎるというか、より思考をまとめるべき題材だったがゆえに諦めて、すかさず月曜日へとパスしたままその月曜日も終わっていった先週の話はさておき、いよいよTWICEがカムバを果たした。個人的なイメージとして、2018年までのTWICEには街のネオンみたいに明るくて鮮やかな光を感じていたのだが、2020年以降のTWICEはもはや閃光のごとく強烈な光を本人たちが放っており、光によってその背後に落ちる濃い影まですべてを含んでいるような印象を受ける。好きになったのは2017年の彼女たちであり、TWICEに限らず自分が真正面から好きだと感じるのはポップな楽曲や映像ではあるのだが、歳月を経たうえでフィットしているのは現在の方向性であるということそれ自体には共感している。もう2023年ともなると、そのように進化を遂げたTWICEの魅力や楽しみ方を十分に理解できるようになった「つもり」でいたのだが、今回の『SET ME FREE』を受け、その「つもり」がようやく実体を伴ったという感覚があり、とても明確に「ここにしかない良さ」を見出せたように思う。

 いま感じている範囲でその良さを表現するならば、重厚で上品なのにキャッチーさが綺麗に残っている、といったところだろうか。出会った瞬間からのTWICEの凄さであり、だからこそ当たり前で意識できていなかったのだが、楽曲やダンス、それらを合わせたパフォーマンスがえらく記憶に残る。その性質が雰囲気を変えながらも永遠に続いており、開幕で9人が縦一列から展開し、美しいメロディーでサビまで滑らかに運ばれ、手錠を噛みちぎられた瞬間、これが全部揃っているの奇跡だよね?という気持ちにさせられた。シンプルでかつ魅力的である状態こそが最高だと思っているので、複雑なメッセージ性や設定の斬新さを押し出そうとしないところも本当にかっこよくて、やはり僕にとってこれ以上ない至高のグループだと実感した。そこに重ねて「OPEN RUN 2015.10 - ∞」なんてさらっと記されてしまった日には、もう情緒が無理だなという気持ち。

 

 ということで、この記事の最初で述べた経歴の通りもちろん長期会員なので、5月にはスタジアムのアリーナ席を陣取り、ポップで重厚で美しくて強烈なTWICEの光を全身に浴びてこようと思います!チョンマル楽しみ!

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 音楽のジャンルだけで言えば、自分はK-POPが好きなわけではないと自覚していて、TWICEを除けば普段聴いている曲は圧倒的にJ-POPが多い。あえて付け加えるならば、あまりにも耳馴染みの良いGFRIENDの曲は、いわゆる作業用BGMのような形で耳に流し込んでいることが多いかもしれない。音楽に詳しいわけではないので、おそらくより客観的な表現があるのだろうが、とにかく予想を裏切らずに気持ちの良いほうへとメロディーが歩みを進めてくれる、そういう曲が好きなのだ。JYP曲は比較的これに該当する滑らかな展開をしてくれるものが多いので、非常に助かっている。

 そして昨日ふと「王道メロディーで快楽を得たい!さらにわがままを言うと、まだ知らない曲でそれを掘り当てたい!」という気持ちになったので、その観点では圧倒的に打率の高いフィロソフィーのダンスYouTubeチャンネルを久しぶりにチェックした。TWICEで言うところの『Say Something』を無限にリリースしているようなグループだ(凄すぎ)。僕がいちばん好きだったメンバーが卒業し、新たなメンバーが加わったことは知っていたのだが、時の流れに押し出されるがまま確認を怠ってしまっていたので、新しくて好きな曲を聴きたいという現在抱えている欲求に応えてくれるのだろうか、もしかしたら何かが大きく変わっているのではないか、とあまりにもライト層で恐縮なのだが、ちょっとした緊張感のある面持ちでアクセスするオタクになった。

 いや、相変わらず良かった。一新されていながらも芯が綺麗に残っているというか、この類の良さって何かが変わってもずっと続けることできるんだ、という驚きがかなり強かった。どの立場かよくわからないが、すごくホッとした気持ちで遡りながら色々聴いていたところ、いわゆる「卒業曲」のMVに到達した。映像もメロディーもここ最近聴いた音楽の中でも本当に指折りの一級品で、あまりにもいま聴きたかった曲すぎてちょっと怖くなってしまった。数回聴いただけでサビが頭から離れない。本当に信用して良かった。最高。

 

 欲求が完全に満たされたとき、このグループが好きなオタクの存在を思い出し、なんとなく昔のTwitterアカウントにログインしてみると、かつて書いた自分のブログが目に入った。こんな書き殴りとは魂の温度がまるで違う。もうこいつはあとひと月で終えようと思う。

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 ソシャゲのサービスが終了するたびに見かける「課金全部無駄じゃん」という旨の発言、ふと冷静に考えてみた結果、だいぶすごいなという気持ちになってきた。発言者のベースにある意図としては、サービス終了によってこれまで課金によって手に入れてきたアイテム等の全てがデータとして「消える」ため、結果としてその課金は何も手元に残らないただの無駄金になってしまう、という話なのだろう。サラッと字面だけ追ってみると、言わんとしていることはわからないでもない。しかし、この発言の根本には、課金の目的をアイテム(以外もあると思うが、ここでは汎用的にアイテムと表現する)の入手としてしまっているという大きな問題があり、これもよくある反論ではあるのだが、課金によるアイテムの入手によって、ステージをクリアできたり、高順位を獲得できたりという、より豊かな体験や時間を間接的に「購入」しているという観点が完全に抜けているのだ。

 そして、体験や時間に対してお金を使うという主張を許さない立場にある場合、永久に手元に残るモノ、あるいは生命維持に必要なモノへの課金以外、全てのお金を使う行為を無駄としないと嘘になるはずだ。食事は美味しいという体験に金を割くべきではないので、生きていける範囲で最も安価なもの以外は無駄であり、旅行は結局自宅に帰ってくるという観点から言えば、その交通費は明らかに無駄である。

 というのは当然極論ではあるが、サービス終了を特異的に無駄と感じてしまう原因はおそらく、わかりやすく「消える」瞬間が目に見えることによって、これまでかけてきた金が「消える」ように感じられるからだろう。これは、かつて趣味で集めていたグッズやらを捨ててしまう瞬間に感じる、過去の浪費(ただし、これは現在の自分から見て浪費なだけで、当時の自分には確かに豊かな時間が流れているのだから、浪費と切り捨てることは正しくない)への後悔によく似ている。ただ逆に言えば、目に見える形でその瞬間まで残っていたからこそ喪失が生じているのであって、そうでない他の体験、例えば先ほども挙げた食事や旅行などは、その場で消費したり、徐々に風化したりするがゆえに、喪失に意識が向かないだけなのだと思う。

 要するに、何のオタクをしていても、体験と時間、言うならばある瞬間の幸せにお金を使うという感覚を大事にしたいのである。全ての瞬間は『First Time』なので。

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 とある番組で有名な気象予報士さんが、天気を当てたところで褒められることはないのに、外してしまうと文句を言われる、とぼやいていた。晴れると言われたから洗濯物を干してきたのに、という文句であればある程度の実害が出ているからまだしも、雨と言われたから傘を持っていったのに降らなかった、という言葉すら飛んでくる、と。確かに我々は、天気予報が当たることは基本的に当たり前のことだと思っているし、実際大まかな内容については盲信していると言っても過言ではない。というか、予報のほうが盲信して差し支えない精度にまで進化している。それゆえの文句であり、それゆえのありがたみの忘却なわけだが、この現象を抽象化して考えると、評価というものはどこをボーダーとして見ているかによって決定される、という話になると思う。

 あるものを評価するにあたって、意識しているかはともかく、個人がそれに対して設定しているボーダー、言い換えれば「このくらいはできるだろう」というような期待がまずあって、そのボーダーを上回った際には賞賛を、下回った際には非難を与えるメカニズムがおそらく存在している。

 それで言うと、天気予報は非常に不利な立場で、予報に「的中させる」を超える結果は存在しないにも関わらず、世間は「的中させる」をボーダーとして設定してしまっている。したがって、ボーダーを下回ることはあっても上回りようがないため、褒められないのに文句を言われる、という悲しい構図が出来上がっているのだと解釈できるだろう。そしてこれは、科学の進歩によって的中率が上昇していったからこそ、ボーダーが天井に達してしまったという例である。すなわち、期待を超えようとする弛まぬ努力が、期待値を引き上げ、賞賛される機会を徐々に減らしていくというスパイラルがこの世界には存在するのだ。

 

 例えば、TWICEを好きになって最初のカムバが『FANCY』だったら自分は何を思っただろうか。実際は好きになってから2年弱であり、そうなると自分の中のTWICEに対する期待値はすでにグッと上がっていたはずだ。もちろん、勝手な期待を毎回凌駕してくれることこそが好きであり続けている理由でもあるのだが、だとしてもきっとボーダーの違いは受け取り方や思い入れの在り方を変えうるもので、今ここにある感情は、好きになったのがあの瞬間でなければ存在しないものなのだ。みんな、その瞬間が正解!

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 今週のTTTだが、清々しく面白かった。もはや定番となった、悪徳という言葉を余裕で超越し、単なる理不尽と表現すべき価格帯のTTT食堂に対し、ミナさんの手によってついに金券偽造という解決策が開発されたのである。偽札造りを解決策と呼んでしまうのは我々が生きる社会にとってもあまり良くない気がするのだが、そもそも食堂側が極めて犯罪的な価格設定であるため、うまくやり返したという感覚が非常に強く、TTT史に残るスカッとする場面だったと思う。食料のレートが異常に高いという前提のもとで全てのゲームを行い、賞金を勝ち取り、食事にありつく。このように設計されたTTTのシステムの中で、大量の賞金を獲得するでもなく、値切って安価で手に入れるでもなく、そのシステム自体を破壊するというのが本当に最高だった。こうなったらもう、一瞬だけ流される曲の断片から『Last Waltz』を死ぬ気で思い出したりする必要はないのである。というか、どうせほぼTTT内に限定的な通貨であることを考えると、ここまで異常なレートにする必要も特にないのだから、製作陣はもはやこのブレイクスルーの瞬間を待ち望んでいたのかもしれない。にしても、お釣りで本物の金券を手に入れるというやり口は、あまりに"本当"の錬金術すぎる。

 

 ずっと前にこんな話をした気がするが、今回のような名作が公開されたとき、一年前であればすぐに感想をツイートしていたところを、今はそれができていない。公開直後に見られていないというのがその理由ではあるものの、本来は別に少し経ってしまってからでも見たときに感想をツイートすればいいのである。ただそれをしていないのは、どこか乗り遅れた感であったり、誰かの二番煎じ感であったり、そういう自分の外との兼ね合いにも原因があるように思えて、自分自身の感情に対して気持ち悪い後味が残る感覚になる。乗り遅れも二番煎じも、周りとの比較によって初めて生じるものであって、好きであることや生じた感情は自分だけが基準であるべきだし、ましてやそれが「いいね」に還元されてようやく満足感を得るような状態は極めて不健全なのだが、一方で、他者の存在無くしてツイートという形で全世界に感想を発信する意味を問われるとそれは難しい。

 ツイートをしない選択は、他者への意識と、自分の中だけに留める意思の対照的な両輪によって成り立つ行動なのかもしれない、とふと思った。