221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 帰るつもりだったのに終電を逃したのは初めてのことだと思う。

 金曜日だから都合が良いのか、3日という時間を待つことができなかったのか、はたまた31日まで連続でそれをやり続けるのか、理由は定かではないけれどすでにハロウィン色に染まりつつある六本木の路地に僕はいた。これはシンプルな偏見だけれど、ただでさえ空気が浮ついていて、きっと物理的にも精神的にも全国平均より鼻の高い人々が闊歩しているのがこの六本木という街だ。だから、視界に入る仮装の有無に関わらずどうにも長居したいと思える場所ではなかったし、そんな夜はさっさと自宅に戻って、普段は袖擦り合うことのない人間たちからうっすらと浴びてしまったオーラを風呂で洗い流すというのが正解に違いなかった。

 これは後から知ったことであり、もう忘れることはないのだが、六本木から自宅の最寄り駅まで帰る方法は細かく分ければ5種類ほどあるらしい。そして、僕が把握していた最も単純な帰り方はどうやら時間がかかるものだったらしく、食事中にさっと目を通した乗換案内に表示された終電はもっとスピーディーな別ルートを意味していた。その事実に気がついたとき、今度六本木から帰るときは注意しようと誓ったが、より根本的に、六本木から帰る日が再び来ないように気をつけるほうが良いかもしれない。

 普段は乗らない電車を乗り継ぎ、可能な限り自宅に近づいてみると、距離で言えばなんだかんだあと5kmくらいの地点までは辿り着くことができた。幸い『Alcohol-Free』な状態だったので、1時間ほど夜道を歩いて帰った。日常的にはほぼ運動をしない人間にとって、この深夜散歩はなにか「良いこと」をしているような感覚で、終電を逃したという事実の悪が精算されるような気がした。実際は悪による帰結でしかないため、全然そんなことはないのだけれど。

 

 昔からよく思うのだが、夜道を歩くことは日常と非日常の狭間を揺らめく行為のように感じる。仕事をしてきたのか、イベントを楽しんできたのか、そこに至るまでの夜の過ごし方によって、たとえ全く同じ道を歩いていたとしても、ルーティーンの哀愁が漂う時間にも、忘れられない特別な時間にもなりうる、その日の決算のような時間なのだ。

 ちなみに終電を逃した帰り道はというと、最寄り駅を過ぎていつもの帰路に踏み入れた途端に、少しの後悔とそれなりの疲労感がのしかかるので覚えておきたい。