221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 夏目漱石の書いた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という一文を信じるのであれば、僕は比較的馬鹿の部類に入るのだろうなと思った。これを任せるのは成長のためだとか、こういう風な視点を持たないと成長しないとか、仕事をしていて降り注ぐそういう言葉たちを、成長することはそんなに大切なことなのだろうかと疑問を抱えたまま耳を素通りさせていることにふと気がついた。成長を目的化されると全く心に響かなくて、それは結局のところ、そこで重要視されている成長に興味がないから、というのが解釈としては最もシンプルである。

 成長自体に関心がないのかと改めて考えてみるために、これまでの人生において「成長したい」という気持ちを抱いた経験について脳内を検索してみたら、韓国語を勉強した時間がヒットした。できる限り多くのコンテンツを受け取れるようになりたい。vliveをリアルタイムで見ても楽しめるようになりたい。こういう目標を成し遂げるために、確かに成長したいと思って勉強していたような気がする。この経験が誰かに強制される成長と大きく違うのは、成長が手段であることと、成長の目的が自発的な興味と結びついているところである。逆に言えば、主体的な動機づけのない成長をゴールかのように提示されるのは、なんというかただ気持ち悪いだけで、なりたくもない何かにさせられそうという嫌悪感は、もしかしたら存在するのかもしれない成長のメリットを覆い隠すのには十分すぎる。

 そう考えてみると、誤った方向の成長に対して嫌悪感を抱けるという事実や、成長したいと感じた経験が存在したという事実は、正方向の成長に対するモチベーションの残滓とも言えるわけで、そんな観点に立つと僕の中にも僅かながらの向上心が宿っている可能性も捨てきれない。それなら、その向上心に従って歩みを進めるべきという気がするし、真っ当な向上心を抱けない場所で無意に過ごす時間はさっさと切り上げるに越したことはない。さてこれは転職の理由たりうるだろうか。

 

 話は変わって、珍しい成長の機会をくれたvliveさえも終了してしまうというのは悲しい限りで、5年ほど前に見たミチュの『녹아요』が、僕を引き摺り込むトドメの映像として機能した瞬間のことは今でも忘れられない。本当に終わってしまう前に、改めて二人の会話を聞いてみるのも良いかもしれない。僕がそこまで「馬鹿」ではない証左でもあるのだから。