221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 食べるという行為は生きていく上で必要不可欠なものであり、人々の暮らしにおいて身近で代表的な幸せなのかもしれないが、世の中には僕のように極端に食への興味がない人間も存在する。好きな食べ物を聞かれても、いま食べたいものを問われても、何かがパッと思い浮かぶことはまずないし、逆に全然これを食べる気分じゃないんだよな、みたいな気持ちもあまりよくわからない。よく見ているYouTubeのチャンネルも、何かを食べる系の企画のときだけはあまり面白いと思えないのでスキップすることにしている。だから、僕にとって食事というものは「生命維持のための義務」という以上の捉え方がなかなか難しく、そんな気持ちがもしかしたら冒頭のあまりに淡白な食の定義を書かせてしまったのかもしれない。

 こういうことを言うとなぜなのかと聞かれることも多いのだが、何かが「無い」ということの理由を言語化するのは容易なことではない。個人的にもその理由を考えてみたことはあるのだが、今のところは満腹中枢がイカれているから、という説明のウケと論理性がそれなりなのでそういうことにしている。自分はあまり満腹を感じないので、例えばビュッフェなどにいった際に、食べろと言われれば比較的無限に食べていられるほうであり、だからこそお腹が減った状態からそれが満たされることによる幸福を得られない、という説明の仕方だ。もちろん、不味いものより美味しいもののほうが良いには良いけれど、美味しさを追求してプラスでお金を使おうなどとは一切思えないので、味覚的な観点からもかなり優先順位を下げることができてしまう身体なのだろう。

 

 空腹を我慢することが苦では無いなど便利なときもあるのだが、別にこのことを誇らしいと思っているわけでは決してなくて、最初に書いた通り、食は身近な幸せなのだからそれを獲得できない分、人生のトータルでは損をしているような感覚で生きている。特に、好きなアイドルがご飯を美味しそうに食べている映像を見ているときには、そこに全く共感できないことへの悲哀すら覚える。

 とまあ、久しぶりのTTTを見ながら改めて感じたのでこれを書いているのだが、ゲーム性を持たせてくれたおかげで内容自体をすごく楽しめたのは本当にありがたい限りだ。食事では得ることの難しい幸せの代わりに、オープニングの『Do It Again』の安心感を噛み締め、そして飲み込んでいこうと思う。