221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 その事実を自覚させられるたびに気づかないふりをしてやり過ごしていたのだが、あえてこのタイミングで向き合うとすると、どうやら僕は飽きっぽい性格のようである。まあ性格などというものは決して一面的ではないし、「飽きっぽい」は、自分を表すラベリングの中でもそこまで強いほうではないと思うのだが、少なくとも性質として持ち合わせてはいる気がする。

 いわゆるアイドルオタクと呼ばれる世界にしっかりと足を踏み入れたのは、高校生の頃、オタク年表で言えば「宮脇咲良初センター」付近である。そして、現在に至るまでのこの10年にも満たない年月の中で僕は、オタクとしてのメインの活動場所をざっと三回ほど変更している。世間の平均値に対するこの回数の多寡や、これをもって「飽きっぽい」とするべきなのかはともかく、ここで確認しておきたいのは、自分が好きなものについても、このくらいの頻度で心変わりを起こしているのだ、という事実である。

 況や、別に好きでもないものをや。ようやく一週間が経ったところで言うのも気が早い話なのだが、労働なる行為を何十年と続けていくのって無理じゃないですか?

 

 話は少し逸れて、前にもどこかに書いた通り、僕は挨拶が好きじゃない。むしろ抵抗感や嫌悪感を感じることすらある。端的に言えば社会不適合で、世間でやらなければいけないとされていることや形式的な物事が苦手なわけだが、そういった決まり事を次々に背負わされながら慣れない(が、本来はあるべき姿の)生活リズムを送っていると、ゆっくりと心が不安定になってくる。金曜日の夜、最寄駅からの帰り道に『날 바라바라봐』を聴いた。18時に更新されたTTTと真摯に向き合うだけの精神的なリソースが足りていない自分を知り、この暮らしを続けてはいけなさそうな自分を知った。

 ただ、大学のガイダンスもそうだったが、新生活の序盤はその環境の面倒臭さの煮凝りみたいなものだ。「飽き」というのは、時間経過による主観的価値の低下であって、「これ以上主観的価値が低くなりようもない物事」に対しては飽きることすらできない。だから、まずは一度「とりあえずやっていくか」という地点に辿り着きたいし、そういう意味では、早く飽きさせてほしい、と思う。

 飽きが来るには、まだ半年くらいかかりそうだ。

 

 再び輝かしい舞台の上に現れた咲良さんが、こんな気持ちの全てを今から吹き飛ばしてくれることを期待して。