221番道路

『しんかいのウロコ』を持たせて通信交換

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 そろそろポケモンの新作が発売されるということで、剣盾のランクマッチも今月からは伝説のポケモンを何体でも使えるという、いわゆる「なんでもあり」と言っても過言ではないようなルールで開催されている。そんなこともあって、半年以上ぶりにポケモンの新たな環境について考察する休日を過ごしたのだが、相変わらず一生やってられるような感覚にさえ陥ってしまうほどの深い沼がそこには広がっていて、これが満足にできない生活になったときには生き方を考え直す必要がありそうだな、と再度認識させられた。

 終わりが近づいているという同じ理由からなのだが、最近はポケモンのアニメも佳境を迎えており、めちゃくちゃ面白いのでつい見てしまう。ちょうど一ヶ月前にポケモン映画を見た話を書いたような気がするのだが、まさにあれと同じような時代にアニメに登場していたキャラクターが復活しており、サトシと熱いバトルを繰り広げたのが先週の話である。その頃のアニメでサトシが培った必殺技を駆使して戦うという、僕の世代にしか刺さらない(そして僕の世代には刺さりすぎるほどに刺さる)演出を見たときは、魂が震えるのを感じた。主題歌も歌詞とメロディがたまらないし、ボーカルの異なるいろいろなパターンが存在するのでおすすめなのだが、今日になってふとMVを見に行ってしまったところ、それぞれで良さが爆発しており、自分が根本的に好きな音楽はこの辺にあるのかもしれないと思わされるほどだった。

 

 こんなとりとめのない話はさておき、要するにここで思ったのは、ずっと好きでいられるものにはそれだけの理由があるとともに、むしろそういう存在によって自分が何を好きになるかという価値観自体が形成されているのではないだろうか、という話である。好きなアイドルの新曲は「きっと好きである」と思って見てしまうから、そうでないアイドルの新曲よりも簡単に好きになるし、それが好きであると感じられるように、自分の中の「好き」が再構築されていてもおかしくない。自分の「好きなもの」と「好き」はそういう風に相互作用して維持されうるもので、だからこそ、好きだったはずの対象からふと興味を失ってしまう現象は、自分自身の価値観に変化が生じたことを突きつけられる恐怖を伴うように思う。

 

 その是非はともかく、ともなると最初に好きかもと思わせてくれた『KNOCK KNOCK』はやはり偉大な曲なのかもしれない。